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第2話 狼王だけが、私の言葉を笑わなかった

last update publish date: 2026-10-10 13:43:22

第2話 狼王だけが、私の言葉を笑わなかった

「その三つを、俺の前で証明できるか?」

 アルドリック・ノクスの声は低く、よく通った。

 大聖堂に集まっていた貴族たちのざわめきは、あれほど大きかったというのに、その一言で潮が引くように静まっていった。

 ミレイアは破棄契約書を胸の前に抱えたまま、返事をすることができなかった。

 証明。

 その言葉が重い。

 自分には、確かにこの羊皮紙から奇妙な音が聞こえている。署名、血印、証人記録。三つの箇所から、それぞれ異なる濁った響きが伝わってくる。

 けれど、それをどうやって他人へ説明すればいいのだろう。

「黙ったところを見ると、やはり未練からの言いがかりだったのではありませんか?」

 ヴィオラが先に口を開いた。

 声は柔らかい。しかし先ほどまでよりも、その微笑にははっきりした棘があった。

「ミレイア様が傷ついていらっしゃることは理解しておりますわ。ですが、ここには外国の国王陛下までいらっしゃいます。個人的な感情で神殿の正式な契約を偽造扱いなさるのは、さすがに許されることではありません」

「ヴィオラ」

 カイラスが制した。

「お前は黙っていろ」

「でも、カイラス様」

「今は俺が話す」

 ヴィオラの顔が僅かに強張った。

 先ほどまで一枚岩に見えていた二人の間にも、どうやら完全には噛み合っていない部分があるらしい。

 そんなことに気づいた自分が、ひどく嫌だった。

 今さら二人の関係に何か問題があったとして、それが何だというのだろう。

 カイラスが自分を捨てた事実は変わらない。

「ミレイア」

 カイラスは祭壇を回り込み、一歩だけこちらへ近づいた。

「さっきから何を見ている? お前は昔から細かいところに気づく性格だったが、だからといって――」

「細かいところ、ですか」

 ミレイアは思わず聞き返した。

「私が見ているのは、あなたの署名と血印と、証人記録です」

「それは聞いた」

「では、まず署名から確認してもよろしいですか?」

 カイラスが眉を寄せる。

「何を?」

 ミレイアは羊皮紙を両手で持ち直した。

 まだ指先へ、あの嫌な響きが伝わってくる。

 怖い。

 もし間違っていたら。

 もし、この場で笑われたら。

 いや。

 すでに一度、人生ごと笑われたようなものだ。

 それに比べれば、今さら一つ恥を増やしたところで大した違いはない。

「カイラス。あなたの署名は、昔から最後の一文字だけ少し上へ跳ねますよね」

「……それが?」

「これは跳ねていません」

 周囲の視線が、一斉に契約書へ集まった。

 神官長が露骨に顔をしかめる。

「筆跡というものは、その時の体調や姿勢でも変わります。そんな曖昧な理由で偽造などと――」

「私も、それだけならそう思います」

 ミレイアは神官長を見た。

「ですが、文字の癖だけではありません。この署名は、カイラスが十七歳頃まで使っていた古い署名です」

 カイラスの表情が変わった。

「何だと?」

「あなたは三年前、侯爵家の正式な跡取りとして王宮文書へ署名するようになってから、中央名を省略する書き方へ変えましたよね。これは以前の形です」

「……」

「覚えていませんか? 新しい署名が堅苦しいと言って、何度も書き損じていたでしょう。私が横で紙を押さえていました」

 そこまで口にしてから、ミレイアは一瞬だけ後悔した。

 こんな時に、そんな思い出まで出てくる。

 カイラスも同じことを思い出したのか、唇を引き結んだ。

「それは……」

 彼は契約書を見た。

 そして、はっきりと顔色を変えた。

「待て」

 今度は彼自身がミレイアへ歩み寄った。

「見せろ」

 手を伸ばしてきたため、ミレイアは反射的に少しだけ身を引いた。

 その動きに、カイラスの手が止まる。

 ほんの少し前までなら、こんな距離ではなかった。

 それでも今は、触れられたくなかった。

「……ここで見てください」

 ミレイアが羊皮紙を広げると、カイラスはその署名を凝視した。

「確かに……俺の今の署名じゃない」

 大聖堂がどよめいた。

 ヴィオラの顔から笑みが消える。

「でも、昔の署名を使ってはいけないという決まりはありませんでしょう?」

「もちろんです」

 ミレイアは答えた。

「だから、これだけでは偽造とは言えません。ただ、不自然ではあります」

「不自然、不自然と……そんな曖昧な言葉で、正式な契約をひっくり返すおつもり?」

「ひっくり返すつもりではありません。私はただ、確認したいだけです」

「何をですの?」

「誰が、いつ、どこで、この書類を作ったのかを」

 ヴィオラは答えなかった。

 代わりに、神官長が一歩前へ出る。

「契約書類の作成過程は神殿の管轄です。私人であるあなたへすべてを開示する義務はありません」

「では、私に確認させるようおっしゃったのは何のためですか?」

「最終内容を読み、破棄の成立を理解していただくためです」

「内容を読むだけで、異議を述べることは認められていないのですか?」

 神官長の顔に、わずかな苛立ちが浮かんだ。

「ミレイア嬢。あなたが今、感情的になっていることは責めません。しかし神殿の権威を傷つけるような言動は慎みなさい」

 その言葉を聞いた瞬間、ミレイアの中にあった怯えが少しだけ薄れた。

 代わりに、妙な違和感が増した。

 自分はまだ、神殿が不正をしたなどと言っていない。

 署名がおかしい。

 血印の時刻がおかしい。

 証人記録を確かめたい。

 ただそれだけだ。

 なのに神官長は、確認されることそのものを嫌がっている。

「権威というものは、確認されると傷つくものなのですか?」

 口にしてから、自分でも少し驚いた。

 普段の自分なら、こんな言い方はしない。

 父や母から何度も言われてきた。

 余計なことを言うな。

 場を乱すな。

 相手を立てろ。

 能力もないのだから、せめて扱いやすい娘でいろ。

 その言葉に従ってきた結果が、今日だった。

 ならば、少しくらい扱いにくくなってもいいのかもしれない。

 神官長が何か言い返すより先に、低い笑い声が響いた。

 アルドリックだった。

 声を上げて笑ったわけではない。

 口元を僅かに緩めただけだったが、それだけで周囲の緊張が別の形に変わった。

「面白い娘だ」

 ミレイアは思わず彼を見る。

 笑われたのかと思った。

 だが、アルドリックの目には嘲りがなかった。

「失礼しました」

「なぜ謝る?」

「今、笑われたので」

「君を笑ったわけじゃない」

 アルドリックは神官長へ視線を移した。

「確認されて傷つく権威なら、俺も一度見てみたいと思っただけだ」

 神官長の顔が引きつる。

「ノクシア国王陛下。これは我が国の国内手続きでございます」

「承知している。だから命令はしていない。興味を持っただけだ」

「しかし――」

「それとも、外国人に見られると困るものでもあるのか?」

 言い方は穏やかなのに、逃げ道がない。

 ミレイアは、これが王というものなのだろうかと思った。

 声を荒らげない。

 威張る必要もない。

 ただ相手がどこへ逃げようとしているのかを見て、その先に先回りして立っている。

 神官長は数秒黙った後、口元だけで笑った。

「そこまでおっしゃるのであれば、もちろん確認には応じます。何も隠すことはございません」

「それならよかった」

 アルドリックはそれ以上追及せず、再びミレイアを見た。

「続けろ。二つ目は血印だったな」

「はい」

 ミレイアは頷き、羊皮紙の下部を指した。

「記録上、この血印が押されたのは昨夜二十二時十二分です。ですがカイラスは、その時刻には王城にいたと言っています」

「いた」

 カイラスが即座に答えた。

「北境会議は二十三時過ぎまで続いた。出席者は十人以上いるし、議事録も残っている。途中で抜けてもいない」

「代理で血を提出した可能性は?」

 アルドリックの問いに、神官長が答える。

「高位貴族の契約では、本人の血液を事前に保管し、手続き上使用する場合もございます」

「そんな説明、俺は受けていないぞ」

 カイラスが神官長を見る。

 今度は明らかに声が低くなった。

「俺は三日前、確認用だと言われて採血を受けた。破棄契約に使うとは聞いていない」

「ですが侯爵家から正式な申請が――」

「誰が出した?」

 カイラスの言葉が鋭くなる。

「父上か?」

 神官長は一瞬だけ答えを遅らせた。

 それを、ミレイアは見逃さなかった。

「申請者については、手続き記録を確認する必要があります」

「さっきまで正式な書類だから問題ないと言っていたのに、申請者すら分からないのか?」

「カイラス様」

 ヴィオラが慌てて口を挟んだ。

「今ここで神官長様を問い詰める必要はありませんわ。手続き上の行き違いでしたら、後で確認すれば済むでしょう?」

「俺の血が勝手に契約破棄へ使われているんだぞ」

「でも、あなたは破棄そのものには同意しているのでしょう?」

 その一言で、空気が変わった。

 カイラスは黙る。

 ヴィオラも、自分が何を言ったのか理解したようだった。

 ミレイアは胸の奥がきしむのを感じた。

 そう。

 ここが一番、残酷なところだった。

 たとえ書類に不正があっても、カイラス自身がミレイアを捨てる意思を変えたわけではない。

 書類がおかしいことと、彼の心が戻ることは別問題なのだ。

「ヴィオラ様のおっしゃる通りです」

 ミレイアは言った。

「私は、この書類に不正があるかもしれないと言っているだけです。カイラスが私との婚約を破棄したいと思っていることまで、嘘だとは言っていません」

「ミレイア」

「大丈夫です」

「何がだ」

「大丈夫ではありませんけれど、今はそこを混ぜると話がややこしくなります」

 カイラスは何とも言えない顔をした。

 まるで責められることを覚悟していたのに、別の方向から切り離されたことに戸惑っているようだった。

 ミレイア自身も、自分がこんなふうに話せるとは思っていなかった。

 心はまだ痛い。

 今すぐ一人になれば、たぶん泣く。

 それでも、目の前の書類がおかしいという感覚だけは、それとは別に確かだった。

「三つ目を」

 アルドリックが促した。

 ミレイアは証人欄を見た。

「証人記録です」

 二名の名前が並んでいる。

 一人は月神殿の副神官。

 もう一人はローデン侯爵家の家令。

「この証人二名は、昨夜二十二時十二分にカイラス本人が血印を押す場面へ立ち会った、という意味で署名しているのですよね?」

「原則としては」

 神官長は慎重な言葉を選んだ。

「原則として?」

「手続きによっては、本人確認を別の時刻に行う場合もございます」

「では、この記録の時刻は何を示しているのですか」

「正式な契約受理時刻です」

「先ほどは、血印が押された時刻だとおっしゃいました」

 神官長の唇が止まった。

 ミレイアも、そこで初めて気づいた。

 自分が聞き間違えたのではない。

 確かに先ほど彼は、申請書類が提出され、血印が押された時刻として説明していた。

 大聖堂の空気が、今度こそはっきりと変わった。

 貴族たちの囁きも、もうミレイアを笑うものではない。

「話が違わないか?」

 アルドリックの声が落ちる。

「……説明が不十分でした」

「便利な言葉だな」

 神官長は返事をしなかった。

 ミレイアはもう一度、羊皮紙へ触れた。

 音がする。

 署名から。

 血印から。

 証人記録から。

 やはり三つ。

 ただし、先ほどより少しだけ、その違いが分かるような気がした。

 署名から聞こえる音は、薄い。

 まるで古いものを写したような響き。

 血印からは、嫌な圧迫感があった。

 証人記録からは、誰かが口を塞がれているような、息苦しい感覚が伝わってくる。

 何なのだろう。

 なぜ、自分にだけ。

「ミレイア」

 アルドリックの声に顔を上げる。

「君は最初から、筆跡や時刻の違いに気づいていたのか?」

「いえ」

「では、なぜ三つだと分かった?」

 胸が跳ねた。

 そこを聞かれるとは思っていた。

 むしろ、ここまで聞かれなかったことのほうがおかしい。

 どう答えればいい。

 音が聞こえる。

 契約書が泣いているように感じる。

 そんなことを言えば、今度こそ笑われるかもしれない。

 ミレイアは無意識に羊皮紙の端を握り締めた。

「……信じていただけないと思います」

「それは俺が決める」

「私自身も、信じられていません」

「なら、なおさら聞く価値がある」

 アルドリックは急かさなかった。

 そのことが、妙にありがたかった。

 ミレイアは一度だけ息を整える。

「この契約書に触れた時、音がしました」

 案の定、周囲がざわついた。

 誰かが小さく笑った。

「音?」

 アルドリックだけは表情を変えない。

「はい。署名、血印、証人記録。それぞれから違う音がします。うまく説明できません。耳で聞いているのかどうかも分からなくて……でも、触れると、ここが違うと感じるんです」

 今度ははっきり笑う声が上がった。

「捨てられた衝撃でおかしくなったのでは?」

「契約書が喋るなんて聞いたこともない」

「無能力だから、今度はそんな能力をでっち上げるつもりか」

 聞き慣れた言葉だった。

 無能力。

 役立たず。

 何の力も持たない娘。

 ミレイアは下を向きそうになる。

 その時だった。

「静かにしろ」

 アルドリックが言った。

 大きな声ではなかった。

 けれど、一瞬で笑い声が止まった。

 彼は周囲ではなく、ミレイアだけを見ていた。

「君は、今まで同じものを聞いたことがあるか?」

「ありません」

「書類なら何でも聞こえる?」

「分かりません。このようなことは初めてです」

「体調は?」

「悪くありません」

「頭痛や眩暈は?」

「少し緊張はしていますけれど、それ以外は」

「当然だろうな。この状況で平然としているほうがおかしい」

 あまりにも普通に言われて、ミレイアは一瞬、返事を忘れた。

 アルドリックは契約書へ目を向けた。

「つまり、君自身にも正体は分からない。ただ、三か所に違和感を感じ、その後に現実の矛盾を見つけた」

「……はい」

「なら、少なくとも調べる価値はある」

 今度こそ、ミレイアは彼の顔をじっと見た。

「笑わないのですか」

「なぜ?」

「変な話でしょう」

「変ではある」

「やっぱり」

「だが、変なことと嘘は同じではない」

 その言葉は、不思議なほど静かに胸へ落ちた。

 これまでミレイアは、自分に獣化能力がないと分かった時から、何度も「普通ではない」と言われてきた。

 普通の狼族ならできる。

 普通の令嬢なら持っている。

 普通なら。

 そして普通から外れたものは、価値が低いのだと、いつの間にか自分でも思うようになっていた。

 けれど目の前の男は、変であることと嘘であることを分けた。

 ただ、それだけだった。

 それだけなのに、胸の奥に固まっていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。

「神官長」

 アルドリックが言う。

「この破棄契約の成立は、いったん保留にするべきだと思うが?」

「それは……」

「俺は他国の王だ。決定権はない。だから意見として言っている」

 神官長は苦い顔をした。

 しかし今や、カイラス本人まで書類に疑問を持っている。

「俺からも求める」

 カイラスが言った。

「この契約の処理を止めてくれ。俺の署名と血が、どう使われたのか確認したい」

 ヴィオラが彼の腕を掴んだ。

「カイラス様。本気ですの?」

「ヴィオラ、これは俺たちの結婚とは別の話だ」

「別ではありませんわ。ここで破棄が止まれば、わたくしたちの婚約発表も――」

「だからこそ、曖昧なまま進めるわけにはいかないだろう」

 カイラスの声に苛立ちが混じった。

 ヴィオラは傷ついたような顔をしたが、すぐにそれを隠した。

「……分かりましたわ」

 その言い方が、ミレイアには妙に冷たく聞こえた。

 神官長は周囲の神官たちと短く相談した後、渋々と告げた。

「では、契約破棄手続きは一時凍結いたします。記録を確認し、改めて関係者へ通知いたします」

 その瞬間、大聖堂の空気が緩んだ。

 ミレイアもようやく、自分がずっと肩へ力を入れていたことに気づいた。

 終わった。

 いや、何も終わってはいない。

 ただ、今日この場で「棄て番」としてすべてを決められることだけは止まった。

 それだけでも、今の自分には大きかった。

「ミレイア」

 カイラスが呼んだ。

 ミレイアは振り向く。

「その……書類の件は、俺も調べる」

「はい」

「それから、さっきのことだが」

 彼は言い淀んだ。

 きっと謝罪したいのだろう。

 あるいは、弁解かもしれない。

 けれど今は、どちらも聞きたくなかった。

「今日は、もう帰ります」

「待て」

「カイラス」

「俺がお前を送る」

 その言葉に、ミレイアは目を瞬いた。

「必要ありません」

「でも、この状況で一人にするわけには――」

「あなたはヴィオラ様と帰るべきです」

 カイラスの顔が固まった。

 言ってから、少しだけ意地悪だったかもしれないと思う。

 けれど取り消す気にはなれなかった。

「あなたが選んだ方でしょう?」

「ミレイア、そういう言い方は」

「どういう言い方なら、あなたは困らないのですか?」

 カイラスは何も言えなかった。

 ミレイアも、それ以上責めるつもりはなかった。

 今ここで勝ち負けを決めたいわけではない。

 ただ、もう以前のように、彼の都合に合わせて自分の気持ちを折り畳むことだけはしたくなかった。

「失礼します」

 神官長へ礼をし、ミレイアは祭壇を離れた。

 数歩進んだところで、後ろから呼び止められる。

「ミレイア・セレス」

 アルドリックだった。

 ミレイアは振り返る。

 近くで見ると、噂ほど恐ろしい顔ではなかった。

 威圧感はある。

 背も高い。

 けれど灰青色の瞳は、思っていたより静かだった。

「少し話がしたい」

「私と、ですか?」

「他にミレイア・セレスがいなければな」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 冗談。

 この人は冗談を言うのか。

 驚いた顔をしたせいか、アルドリックの口元がごく僅かに緩んだ。

「そんな顔をするな。俺も人間だ」

「狼族では?」

「そこを突っ込むのか」

 ほんの一瞬だけ、張り詰めていたものがほどけた。

 笑っていいのか迷いながら、ミレイアは小さく息を漏らした。

 今日初めての、苦しくない笑いだった。

「失礼しました」

「今度の謝罪は受け取っておく」

 アルドリックはそう言ってから、声を少し落とした。

「君が聞いたという音について、俺はもう少し詳しく知りたい」

「私にも、まだ何なのか……」

「分からないなら、一緒に確かめればいい」

 あまりにも簡単に言われて、ミレイアは返事に詰まった。

「なぜ、そこまで?」

「契約の不正を見抜ける人間が本当にいるなら、俺には見過ごせない理由がある」

 その目が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。

 何か過去に関係があるのだろうか。

 けれどアルドリックは、それ以上は言わなかった。

「今日は疲れているだろう。今すぐ答えを出せとは言わない」

「……はい」

「ただし一つだけ覚えておけ」

 ミレイアは顔を上げた。

「今日ここで、君の言葉を笑った連中が全員正しいとは限らない」

 彼はそう言い残し、側近らしい男とともに大聖堂の奥へ向かった。

 ミレイアはしばらく、その背中を見送っていた。

 自分を救ってくれた、などと思うつもりはなかった。

 まだ何も分からない。

 彼が何を求めているのかも知らない。

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 今日、誰もが自分を「捨てられた女」として見ていた。

 けれどあの狼王だけは、最後まで一度もそう呼ばなかった。

 ミレイアではなく、能力でもなく、醜聞でもなく。

 彼はただ、自分の言葉を聞いた。

 たったそれだけのことが、なぜか今は、泣きたくなるほど嬉しかった。

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